昨夜、NHKのニュース番組を見ていたら、「世界に一つだけの花」がオリコン年間チャートNo.1になったいうことだ。
気になったのは、オリコンの担当者がこの歌の歌詞について、人々が「癒しを超えて許しを求めている」とコメントしたことだった。自分が自分自身を許すという意味では正しいのだが、その発言だけを切り取ってしまうと、誰か別の人に許してもらうことに聞こえてしまう。
あの歌詞の中心は、自己肯定のメッセージだ。それは、よい点も悪い点もひっくるめて、自分自身を受け入れ愛しなさい、ということだ。人はいつも競争と他人の評価にさらされている。親の期待が重荷になっている人々は数多い。親の期待に添えない自分はダメ人間だと思い、存在が許せなくなってしまう。しかし、この人生を生きるのが自分である以上、主人公は自分自身なのだ。他の誰かのために生きているのではない。だから、他者の評価に惑わされず、自分自身を愛し、自分のためによりよい人生を生きよう、そう思うのだ。
ちなみに、童謡作家まどみちおの詩には自己肯定のメッセージがたくさん見られる。「千と千尋の神隠し」の主題歌「いつも何度でも」は仏教的な世界観に支えられた、深い自己肯定と自己発見がテーマになっている。
SMAPが歌ってヒットさせた「世界に一つだけの花」(作詞・作曲 槇原敬之)の歌詞はすばらしい。ぼくたち一人一人がかけがえのない大切な存在なんだ、ということを伝えてくれている。ところが、最近気になることの一つが、この歌に出てくる「オンリーワン」という言葉が間違った文脈で使われていることが多いことだ。
夏休み前、小6の息子の小学校から便りが来た。校長先生からのメッセージは、「オンリーワンをめざそう」と大きく書いてあった。先週、アニメ「クレヨンしんちゃん」を見ていたところ、優等生の男の子が「ナンバーワンじゃなくて、オンリーワンになればいいんじゃないかな」と話す場面があった。
SMAPは冒頭こう歌っている--「No.1にならなくてもいい もともと特別なOnly one」。これは、ぼくら一人一人がかけがえのない、取り替えの利かない、たった一人の大切な存在なのだという意味だ。続く歌詞では、繰り返し、人間は競争ばかりしているが、本当はそんなことはしなくてもいいんだよ、と歌っている。自分のもっている種を咲かせることだけに一生懸命になればいいと。自分の内側にあるもの、自分が本来もっているものを、磨いて輝かせればよいのだ。
校長先生やしんちゃんの友達は、オンリーワンという言葉を使いながら、実は限られた分野におけるナンバーワンをめざせ、といっているように見える。ぼくらはそもそも「特別なオンリーワン」なのだから、何か別の者になることを「めざす」必要などない。ぼくはぼく自身であって他の誰でもないのだ。
一番大切なことは、あなたがあなた自身を受け入れること、よい面も悪い面も全て。そして、自分を愛することだ。自分を愛せない人は人を愛することもない。自分を愛することができて初めて、人を愛することがどういうことか感覚として理解されるようになる。自分を受け入れて心を開くことができれば、周りの人もあなたに心を開くようになる。
たとえ他人の付けた評価が低くても、あなたはかけがえのない、大切な「オンリーワン」。そのままで輝いている存在なのだ。
夏休みに家族旅行で高知に行きました。
ホェールウォッチングで船上から撮ったニタリクジラの写真です。
かなり近くから見ることができたので、迫力がありました。
水面に出る時間が短いのでデジカメでよい写真を撮るのは難しいです。
太平洋で少し沖に出ると周囲は水平線だけ。陸地は見えません。
不思議な感じがします。

※この文章は2002年3月にNY在住の日本人ジャーナリストの方にお送りしたメールです。
最近はちゃんと本も読んでいなければ新聞すらまともにチェックしていないので、まとまりのない文章になってしまうことをお許しください。
まず、政府レベルの行動という点での現在のアメリカは最悪です。地球環境問題、核兵器廃絶などあらゆる国際協調に背を向け、自国の論理を世界に押し付けています。そして、「テロに対する戦争」ではアメリカに従え、そうしない国はテロリストと同じだ、という二者択一を迫っています。アメリカは力によってテロを押さえつけようとしていますが、それは単なる対処療法で、テロが生まれてくる背景に目を向けようとはしません。世界の抱える病(富の偏在)を根本から癒そうとする努力なしにテロを止めることはできないでしょう。
もっとも、ブッシュにとっては、パパブッシュと同様、石油産業と軍産複合体の利益が最優先課題なわけで、テロが続くことを影で期待しているのかもしれません。
たとえば、アフガニスタンの暫定政府が武装解除を進めているというのに、アメリカは北部の軍閥に大量の武器を供給しています。自国へのテロには敏感に反応しても、他国の内戦には油を注ぐこの矛盾。
厄介なことに、アメリカが「テロに対する戦争」などという概念を流布したために、それに便乗する連中が現れました。ご存知の通り、ロシアとイスラエルです。これまで「内戦」と呼ばれていた紛争が「対テロ戦争」と呼びかえられたためにあたかも正義の戦争であるかのように宣伝されています。インティファーダとテロを同一視するのは大きな問題です。今のパレスチナの状況には目を覆いたくなります。
次に、メディアと大衆操作の問題です。ご存知の通り、戦争はメディアにとってもっとも「儲かる」ニュースです。ニューヨークタイムズが現在の地位を占めたきっかけは第一次世界大戦で前線からの詳細なレポートを掲載したことによるといいますし、CNN発展の転機は11年前の湾岸戦争です。このたび、アメリカの三大ネットワークは政府に右へ倣え状態で、国威発揚報道を繰り返したと聞いています。政府を批判する言論は隅に追いやられ、チョムスキーなどの進歩的な知識人にはほとんど発言の場が与えられなかったといいます。報道を見る限り、アメリカ人の大半が政府の政策を支持しているようですし、政府とメディアによる大衆操作は完全に成功したように見えます。
しかしながら、広島・長崎の被爆者の団体を受け入れることが可能であること、NACのボランティアたちがなんとかプレゼンテーションを続けていることなどを見ると、アメリカの良心は捨てたものではないと思います。ちなみに代表団の現地コーディネータはHIPの元メンバーで数ヶ月前まで広島に住んでいた Steve Leeper さんです(アトランタ在住)。
さて、日本でも米国の対テロ戦争を支持する世論は強いと思いますし、小泉内閣のテロ特別措置法案もすんなり通ってしまいました。
しかし、アメリカと日本ではやはり温度差があり、戦争以外の道を模索する人々も相当数に上ることが救いです。いくつか思いつくエピソードを書いて見ます。
・報復攻撃中止を訴える広告を米紙に掲載するための募金に1週間で2000万円が集まりました。
http://www.peace2001.org/
・若い人たちを中心に、Chance! という平和団体が設立されました。
http://give-peace-a-chance.jp/index.shtml
・福岡を中心とするパキスタン・アフガニスタン医療支援NGO「ペシャワール会」が呼びかけた「アフガンいのちの基金」への募金額が、10月12日から12月6日までの間に 395,136,426円に上りました。その中には、ぼくの息子が小遣いをためて募金したお金がささやかながら入っています。
http://www1m.mesh.ne.jp/~peshawar/
・坂本龍一が編集した『非戦』(幻冬社)がベストセラーになりました。
http://www.sustainabilityforpeace.org/home.php
・広島では毎週水曜日の夕方、原爆ドーム前で女性や宗教者を中心に「祈りの集い」が開かれ続けています。
世界を変えるのは難しい。でも、希望は捨てません。
結婚してからもうすぐ15年になります。妻のことをさす言葉としては、「妻」とか「つれあい」を使っています。「つれあい」というと理解してくれない人がいるのがこまります。
うちは結婚したときから別々の姓を使い続けてきました。最初は籍を入れて、妻が通称を使用しました。妻が免許やパスポートをとるときに本来の名前でとりたいときは、ペーパー離婚&結婚をしました。こんなことをすると「戸籍が汚れる」という人がいますが、そもそも「戸籍」というのは徴兵制のために明治政府が導入した制度で、日本・台湾・韓国にしか存在しないものです。こんな制度は鼻先であしらってやる必要があります。ちなみに、ぼくの本籍地は原爆ドームです(すごいっしょ?)。
10年前に子供が産まれてからどういうかたちにするか、夫婦で議論しました(妻がぼくに詰め寄ったというほうが正確か?)。結果、ペーパー離婚し、子どもの姓は山田にし、親権は妻がとるというかたちに落ち着き、現在に至っています。
親が別姓だといじめられる、などということを言う人がいますが、それは自分が別姓夫婦をいじめたい人なのでしょう。実際問題、別姓のために子どもがいじめられたという経験は皆無です。
ぼくは週に2~3回夕食を作ります。うちでは夕食を作らなかった方が洗い物をするという不文律があるので、作らなかった日は鍋や食器を洗います。昨夜は地中海風イカのトマトソース煮、菜の花とゆで卵のサラダを作りました。今夜は妻が習い事にいくのでぼくが夕食当番になります。
子育ては、大変だけど楽しいです。今は大きくなったのでとても楽になりました。保育園に毎日送り迎えにいった日々が懐かしいです。子どもが小さい時って、そのときにしかないかわいらしさがあるでしょう?
ぼくは会社に縛られるのが大嫌いなので、会社勤めをしていた10年間はしんどかったです。とはいえ、そのうち通算5年間は契約社員としての勤務だったので、自由になる時間は他の人より多かったのですが。昨年6月に退職し、SOHOやってます。自宅でプログラム開発やインターネット・サーバ管理などの仕事をしています。
市民コンピュータコミュニケーション研究会という特定非営利活動法人(NPO法人)の共同代表をしていて、その団体の業務や、そこを通じて委託される業務をすることが多いです。
10年以上前から非営利団体で仕事をして食べていきたいと思っていたのですが、今はその通りになっているのが不思議な感じがします。
これはHIPのメンバーからいただいたメールへの返事として書いたものです。
アメリカ人に原爆の話を聞いてもらうのがむずかしいとのこと、その通りだと思います。だれだって自分の国を悪く云われるのはいやなものです。日本にだって過去の過ちを認めない人々がたくさんいます。自分の弱さを受け入れられない多くの若い人たちが「自由主義史観」という「正義の戦争」論に呑み込まれてしまっています。
自分たちは偉い、ナンバーワンだ、と思うことは心地よいものです。また、良いことはしたが、悪いことなどしていない、というのも同じことですね。自分が属する国、地域、企業(夫の職場も)など自分の属性の優越性を自尊心の基盤にしている人は多いです。本当の意味で自分自身を尊敬できないからですね。そのような自尊心はとてももろいものです。そのような弱い自尊心をくすぐることで大衆を組織していったのがナチズムや日本軍国主義だと思います。
だれでも多かれ少なかれ、そういった弱さの芽をもっていると思います。しかし、自分が自分であることを喜びとし、心の底から自分を尊重し、深く愛することが大事だと思うのです。そうすれば、自尊心を周りの属性に依存することなど必要なくなります。
話をアメリカの人たちのことに戻します。まず必要なことは、次の立場を明らかにすることだと思います。「あなた方の過ちを追及しにきたのではない。私たち人類の未来について語りにきたのだ」ということです。次に、日本人に対する偏見を持っていたり、何も知らない人は少なからずいますから、日本人がどのような家に住み、どんな仕事をし、何を食べ、どんな音楽を聴くか、など日本の文化について説明し、同じ人間だということを理解してもらうことではないでしょうか。これで全ての人が納得するとは思いません。一人でも二人でも耳を傾けてくれる人をみつけることが大事だと思います。
1987年に初めて韓国に行ったとき、日本の植民地支配に対する抵抗運動「三・一運動」発祥の地、ソウルのパゴダ公園に行きました。その公園には日本支配に抵抗する様々な運動の場面を銅板のレリーフに刻んで展示してあります。それらの前に行ったとき、伝統的な黒白の民族衣装を身にまとった白ひげの老人が「ここに何が描いてあるか分かるか」と流暢な日本語で問いかけてきました。もちろん、事前に勉強しており、大体のことは知っていましたので、敵対的な会話にならずにすみました。でも、もし、自分が何も知らず、一方的に自分の国の過去を責められたとしたら、逆にとても防御的(protective)になり、反論を探すために勉強したかもしれません。
さて、金儲けと無縁な活動をなぜ熱心にするか、という質問をいただきました。一言でいえば、それが「好きだから」です。若い頃は名誉欲や権力欲も理由の中に入っていたかもしれません。
なぜ好きか、ということを掘り下げると、次のような理由に思い当たります。美しい魂に出会えること、人の役に立つのが嬉しいこと、笑顔を見るのが楽しいこと、などです。
HIPのメンバーには、英語のスキルアップのためにHIPの活動に参加したい人より、HIPの活動がしたいから英語のスキルアップをしたい人が多いと感じています。これはとても素晴らしいことです。本当にやさしく、謙虚で、かつ行動力のある人も何人かいます。HIPはとりわけそれらの人たちに支えてもらっていると思います。
最後に、ぼくが「悲観的でない」理由です。昔から楽観的な人間だったわけではありません。いろんな経験を通して、そう考えられるようになってきました。世の中を変えるために自分ができることは小さなことです。だから、目に見える効果や結果を期待してはいません。
この世の中で変わらないものは何一つありません。唯一変わらないものは、世界が変わり続けるということです。カエサルの時代にローマ帝国が滅びることを想像した人はいないでしょう。江戸時代の中頃に生きた人は徳川幕府が終わることなど考えたこともないでしょう。ぼく自身、ソ連が崩壊することなど全く予想できませんでした。でも、変わりましたよね。
だから、核兵器がなくせないということはありません。現在、米ロが保有している核弾頭だって、10年とか20年という時間が過ぎれば多くの割合が経年変化で使えなくなってしまいます。新しく作りさえしなければ、自然と減っていくのです。
そして、希望の芽はたくさんあります。それぞれに小さい芽かもしれません。でも、それらが大きな底流となってやがては世界を変えていくことになると思うのです。
8月21日から22日にかけてぼくの実家に家族で帰省しました。駆け足の旅でしたが、いろいろと感じることや考えることがありました。
ぼくの実家は熊本ですが、生まれた町は福岡県の大牟田市です。かつて炭鉱の町として栄えましたが、1960年頃の最盛期を過ぎると石炭産業は衰退して人口も減り、1997年に最後の炭坑が閉山となりました。
今回は、二日目に家族と一緒に大牟田に行き、石炭産業資料館、生まれ育った社宅跡地や通った小学校などを見て回りました。
最初に父の車の先導で市の南部、三池港に隣接した広大な炭鉱社宅跡地をみました。ちなみにここはぼくの生まれた場所ではありません。かつておそらく数千~数万の人が暮らしたであろう三川社宅は 10年ほど前に閉鎖され、整地されて、貯炭場に変わっていました。土砂降りの雨の中ぬかるんだ黒い泥地に車を止め、写真を撮りました。父はここで帰りました。
一杯300円という格安のラーメン屋で昼食をとった後、石炭産業資料館を見学しました。石炭産業の歴史展示のほか、子ども科学館にあるような遊び道具もあるので、子どもも楽しめたようです。ここには、炭鉱で使われた採炭機械がいくつも展示してあり、実際に動くものもあるのでおもしろかったです。
市の北部にぼくの住んでいた社宅があります。7~8年前に訪れたときは、まだ社宅は残っており、すんでいる人たちもいました。
社宅がどういうものか想像できないかもしれませんね。木造の粗末な建物で、一棟が真ん中の壁で仕切られて二世帯が居住するようになっていました。間取りは、4畳半、6畳、3畳の和室と猫の額ほどの台所、便所、そして小さな庭がありました。何か足りないものがあると思いませんか? そう、お風呂です。風呂はありませんでした。その代わり、共同の大浴場があり、そこに通っていたわけです。少し離れた場所に、「職員住宅」とよばれたホワイトカラー用の社宅がありましたが、それらは2階建てで各戸に風呂が備えられていました。そこにすむ子どもたちはぼくらのもっていないようなおもちゃをもっていました。「スネ夫」みたいな感じで見ていたかもしれません。
さて、前回訪れたときは、人の住んでいない家は廃屋となっていました。中をのぞくと、何本もの笹が、床と畳を貫いて家の中に伸びていて、驚きました。社宅の住民が利用していた郵便ポストに、そのポストが廃止されたことを告げる紙が貼られていたのはわびしい光景でした。しかし、ぼくが生まれてから小学5年生まで過ごした住宅は残っていましたし、遊んだ児童公園も、水遊びをしたプールも雑草の中に隠れそうになりながらも、そこにありました。
昨日、社宅のあった場所に着いたとき、ぼくは自分がどこにいるのかさっぱりわかりませんでした。どこに社宅があるのか、見当がつきませんでした。そこで、まず通った小学校に行くことにしました。小学校は30年前に建てられた校舎が、すすけて汚れてはいましたが、今もそこに建っていました。そこで、もう一度小学校からのルートをたどって社宅のあったはずの場所へ行きました。
そこで目にしたものは、真新しい家々の並ぶ住宅地でした。開発されて間もないらしく、「宅地分譲中」の看板がそこかしこにありました。社宅も、公園も、プールも、ポストも、なにもかもなくなり、新しい町に生まれ変わっていました。
それは不思議な感覚でした。自分の生まれた場所が地上から消え去ってしまった。桜の木に登って紫色の実を食べたこと、プールで水遊びをしたこと、ブランコでジャンプをしたこと、それらを懐かしむ場所は、もうどこにもないのです。
奇妙なものを食べたお話です。
ある日、妻もぼくも家に帰ったのが7時過ぎで、冷蔵庫の中の食材も乏しく、疲れていたので子どもを連れて外食にしました。
天満町の電停から50メートルほど東に行くと、黄色い看板のど派手な骨董屋の隣にあるのかないのか分からないほど地味なイタリアン・レストランがあります。自宅からは5分とかからない場所にあります。今、こうやって書いていてもお店の名前がどうしても思い出せません。今朝は、名前があるかないかで妻とちょっとした口論(妻は「ない」と主張)になったくらいです。
レストランは、以前喫茶店だった店舗を改装したものですが、木のテーブルとイスの感じがシックで落ち着きます。無口で無愛想なお兄さんが一人でやっているお店です。ここの名物はなんといっても生パスタでしょう。パスタの注文があると板状のパスタを裁断機にかけて麺にします。ちょうど、うどんのきし麺のようなかたちです。
さて、そのお店のメニューは、季節によって変わります。前に行ったとき食べたものが今回も食べられるとは限りません。昨日は、「亀の手ワイン蒸し」というメニューがあったのでそれを注文してみました。
出てきた料理を見ると、ちょっとのけぞりそうになりました。まるで、食べられることを拒否でもしているかのように、どこをどうやって食べていいのか分からなかったのです。かたちは、確かに「亀の手」のようでしたが、においからして、磯辺の動物のようでした。おそらく、フジツボとかイソギンチャクの仲間ではないでしょうか。先端にはフジツボのような殻があり、根元はゴム引き布のような皮で覆われています。殻と皮の継ぎ目のあたりをぶちっと切り離すと、中に貝のような身が見えました。それで、「ああ、これを食べるんだな」と理解した次第です。味はちょうど淡白な貝のような感じでした。まあまあおいしかったかな。
(後日、そのお店の名前が "OSTERIA DEA" だということが分かりました。やっぱり覚えられないですよね)
今日の午後、自転車で「散歩」に出かけました。
年末に新しいアルミフレーム、7段変速の自転車を買ったのに、昼間にある程度長い距離を乗る機会がなかったので、乗ってみたくなったのです。目的地は、比治山公園。自宅から3キロほど東の小高い丘です。ふもとから公園まではかなりきつい坂なのですが、軽い車体とギヤのおかげで、自転車に乗ったまま登り切ることができました。
公園より一段高い頂上には広島市現代美術館があり、特別展をしていたので、見に行きました。「パサージュ フランスの新しい美術」というテーマで、フランスの12人の作家たちのごく最近の作品(1999年が中心)を展示していました。ガスレンジの上に小型テレビがあり、沸騰した鍋がかかっている映像が映し出されている作品、8時15分(広島の原爆投下の時間)が黒い影で示された真っ白な腕時計、壁でマッチをすって火をつけ、燃えている間に願い事をする「願い事の壁」など、面白い作品が色々ありました。
中でも気に入ったのは、直径5メートルほどの円筒形の中庭に設置されたインスタレーション作品です。庭を取り囲むガラス壁に半透明のビニール袋で作った風船をイソギンチャクのように貼り付け、地面の2カ所から泡が湧いているという作品です。泡の塊は1カ所にとどまっているようで、常に更新され続けています。「変化し続けること」を作品の中に取り入れてしまったことに強く惹かれました。
大笑いしたのは、コンタクトレンズに黒目を2個書き入れた作品です。作家の片目が大写しになってぎょろぎょろ動いている映像がビデオで流れていたのですが、いったい何なのか最初は分かりませんでした。近づいてよくよく見ると、なんと黒目の中に、さらに2個の黒目があるではありませんか。コンタクトレンズ(2個1組)の実物がおいてあったのでよく見ると、1個のレンズに黒目が2個書き入れてありました。よくこんなことを考えついたものです。
(季刊『批判精神』第2号、「核廃絶伝言板」の原稿として5月4日に書いたものです。雑誌が発売になったのでHPに掲載しました。季刊『批判精神』についてはこちらをご覧ください)
「広島には世界各地から多くの人々が訪れます。平和運動をしていると、平和について考えているのは自分だけじゃないかと時々孤独な気持ちになります。しかし、広島に来て、平和公園を歩き、原爆の子の像に捧げられた無数の折り鶴を見ると、こんなにも多くの人が平和について考えていることに大変勇気づけられ、帰国後再び元気に活動ができます。ヒロシマとはそういう土地なのです」
先日、広島市内のワールド・フレンドシップ・センターを訪ねたとき、赴任して間もない初老のアメリカ人館長からこのような言葉を聞いた。たまたま、そのときセンターに宿泊していたカナダ人姉妹とも少し語り合い、ヒロシマにふれた感動を聞くことができた。
広島に住み、日々の活動に追われていると、時々自分のしていることの意味を見失いそうになることがある。が、このような言葉を聞くと、逆にこちらの方が勇気づけられる。
私は、「8・6ヒロシマ平和へのつどい」という市民団体や個人が集まってつくるヒロシマデーの平和集会で、事務局を担当している。つどいでは、毎年8月5日と6日を中心に、討論集会、ワークショップ、ミニコンサートなどを開催してきた。一人の市民として平和を考え、互いの思いをぶつけ合う、そういう集会を目指している。また、関連団体「ヒロシマの今から過去を見て回る会」主催で、軍都・被爆遺跡めぐり、軍事施設を海から見るクルージングなどのフィールドワークも行われている。
昨年は、8月5日夜に、各世代から6人のリレートークと小グループに分かれた討論のつどいをもった。夜9時半からは原爆ドーム前でキャンドルを灯してミニコンサート。6日午後に核問題シンポジウムを開催した。各地で平和への取り組みをしている人々が出会い、エネルギーを分かち合い、元気をもらって帰ることができたものと信じている。今年のつどいに向けた取り組みも始まっている。
つどいの特徴の一つは、早くから広島の被害と加害の二つの側面を取り上げてきたことだ。広島で平和を考えるとき、原爆の被害について語ることは欠くことができない。しかし、広島という町が西日本有数の軍事都市であり、日本の侵略戦争において大きな役割を果たした「加害」の側面についての認識がないと、耳を傾けてもらえない人々がいることも事実だ。問題は、日本が侵略をしたのだから原爆投下は仕方がなかったのだ、と考えてしまう人々がいることだ。どのような理由があろうと、非戦闘員を巻き込んだ無差別大量殺戮が許されてよいわけがない。
最近、被爆証言活動をしている久保浦寛人さんの証言を聞く機会があった。彼は被爆体験を語る前に、こう前置きをしている。「世界には多くの戦争被害者がいるので、原爆の被害の面だけを話しても相手には伝わらない。原爆は過酷で、残忍で、恐ろしい兵器だ。再び人類に向かって落としてはならない。自分の語る事実を土台にして皆さんの生き方を考えてほしい」
この言葉によって、証言を聞く者は、原爆が日本帝国主義からアジアを解放したとか、原爆はパールハーバーへの報復だ、などという国籍による立場への固執から解放され、未来の世界に責任をもつ一人の個人として被爆体験と向かい合うことができるのだ。
被爆者が自らの体験を語るときには、これでよいと思う。被爆者に日本の加害を謝罪するよう求める必要はない。しかし、私のような戦後世代はどうとらえればよいのだろうか。自分は原爆の直接の被害者でもなければ、戦争を起こした加害者でもない。私にできることは、自分の国の歴史的責任を引き受けることだと思う。それは、日本の侵略戦争の過ちを認めること、日本政府に対し戦争責任・戦後責任をとるようたとえ小さな努力でも働きかけることだ。自国の誤りを正当化しない、だからこそ原爆投下の正当化も許さないのだ。
これからも、広島を訪ねる人々に勇気を与えられる広島であってほしいと願う。そのために、自分にできる小さな積み重ねを大事にしていきたい。